人が変わるきっかけというものは、そのときの自分の状況によって違うのではないかと思っています。
何か大きな出来事があって、
「これをきっかけに人生が変わった」
という話を聞くことがあります。
もちろん、そういうこともあると思います。
ただ、私自身を振り返ってみると、一度何かに気づいて、その日からずっと右肩上がりに成長し続けてきたわけではありません。
むしろ逆です。
良くなったと思ったら、また落ちる。
もう大丈夫だと思ったら、別のことで悩む。
何かを乗り越えたと思ったら、しばらくして違う壁にぶつかる。
そして、そこでまた何かに気づき、少し変わる。
私の場合は、そんなことを何度も繰り返してきました。
だから最近は、
「人は一回変わったら、そのままずっと成長し続ける」
という考え方そのものが、少し幻想なのではないかと思っています。
立ち上がるための学びが必要なときもある
人間関係で悩み、ものすごく落ち込んでいた時期があります。
そんなときの自分に必要なのは、厳しい指摘ではありませんでした。
ただでさえ自信を失っているところに、
「あなたのここが悪い」
と言われても、おそらく受け止める力がありません。
そのような状態のときには、
「まだ大丈夫かもしれない」
「もう一度やってみよう」
と思えるような言葉や学びが必要でした。
希望を持たせてくれる本だったり、人の話だったり、考え方だったり。
そういうものに出会うことで、私は何度も立ち上がってきました。
人によっては、それを「甘い」と感じるかもしれません。
でも、立ち上がる力そのものを失っている人には、まず立ち上がるための力が必要です。
そのときの自分に必要だったものは、間違いなくそれでした。
一方で、優しい言葉では変われないときもある
ところが、いつも希望を与えてもらえばいいわけでもありません。
自分なりに一生懸命考えている。
いろいろ試している。
それでも、どうしても出口が見えない。
そんなときもあります。
そういう状態では、自分の考えの中だけをぐるぐる回っていても、なかなか答えが出ません。
むしろ、そのときの私には、
自分では見えていない弱いところを誰かに指摘してもらうこと
が必要でした。
耳の痛い話でも、
「そこじゃないですか」
と自分では気づかなかった部分を指摘してもらった瞬間に、急に物事がつながることがあります。
希望を与えてもらうことで変われるときもあれば、
厳しい現実を見せてもらうことで変われるときもある。
私自身の中だけでも、変わるきっかけは一つではありませんでした。
そのときの自分に何が必要なのか
ここが、とても難しいところだと思います。
落ち込んでいるのに、さらに自分を追い込んでしまうことがあります。
反対に、本当は自分の問題と向き合わなければいけないのに、
「自分はこのままでいい」
という言葉だけを探してしまうこともあります。
どちらも私には経験があります。
だから大切なのは、
今の自分がどんな状態なのかを、自分で観察できるようにしておくこと
なのではないかと思っています。
今の自分には、励ましが必要なのか。
それとも、厳しい指摘が必要なのか。
休んだ方がいいのか。
動いた方がいいのか。
自分一人で考えた方がいいのか。
誰かに相談した方がいいのか。
答えは、その時々で違います。
だから「これをやれば必ず変われる」という一つの方法を探すよりも、自分自身の状態を見る力を持つ方が大切なのかもしれません。
物事の中に入り込みすぎると、自分が見えなくなる
何か問題が起きたとき、私はその出来事にどっぷり入り込んでしまうことがあります。
頭の中がそのことでいっぱいになる。
相手の言葉がずっと残っている。
何度も同じ場面を思い返す。
「なぜこうなったのか」
「どうすればいいのか」
「自分は間違っていたのか」
そんなことを考え続けます。
そして、だんだん感情までその出来事に飲み込まれていきます。
こうなってしまうと、本来のパフォーマンスはなかなか出せません。
冷静に考えているつもりでも、実際には感情の強いバイアスがかかった状態で物事を見ています。
自分では客観的に考えているつもりだから、さらに厄介です。
もちろん、私は今でもこれに気づけるときもあれば、まったく気づけないときもあります。
まだまだ未熟だと思います。
それでも、
「ああ、今の自分は物事の中に入り込みすぎているな」
と気づけるだけで、少し状態が変わることがあります。
自分の目、他人の目、世間の目
物事を見る視点について、
「自分の目・他人の目・世間の目」
という考え方があります。
私はこれをとても意識しています。
まず、自分の目。
自分はどう感じているのか。
自分はどうしたいのか。
次に、他人の目。
相手から見たら、この出来事はどう見えているのか。
自分の言動はどう受け取られているのか。
そして、世間の目。
自分と相手という関係性を離れて、一般的に見たらどうなのか。
ここまででも、かなり見え方は変わります。
ただ私は、最近もう一つ、
「神の目」
というものを意識するようにしています。
私が考える「神の目」
ここでいう「神」というのは、宗教的な意味ではありません。
もっと高いところから物事全体を眺める、という意味です。
「宇宙の目」と呼んでもいいかもしれません。
自分自身。
相手。
その場にいる人たち。
今起きている出来事。
少し前に起きたこと。
そして、この先起こるかもしれないこと。
それらをすべて上から眺めているようなイメージです。
例えば、自分が誰かに腹を立てているとします。
自分の目から見れば、
「相手が悪い」
と感じているかもしれません。
でも、少し上から眺めてみる。
相手にも相手の事情がある。
自分にも至らなかったところがあるかもしれない。
そもそも、この出来事は一年後にもそれほど重要なのだろうか。
今、自分が怒り続けることは、この先の自分にとってプラスなのだろうか。
そんなふうに視点を少しずらしてみる。
すると、
「自分が今感じている感情」
と
「実際に起きている出来事」
を少し分けて考えられることがあります。
私は、この視点を「神の目」と呼んでいます。
感情をなくすのではなく、感情から少し離れる
もちろん、感情を持たない人間になることが目的ではありません。
嬉しい。
悲しい。
腹が立つ。
悔しい。
不安になる。
そういう感情があること自体は、人間として自然なことです。
大切なのは、その感情に完全に飲み込まれないことだと思っています。
「私は今、怒っている」
「私は今、不安になっている」
と、自分自身を少し離れた場所から見る。
それだけでも、
「怒っている自分=すべて」
ではなくなります。
感情はある。
でも、その感情を眺めている自分もいる。
そんな状態をつくれると、少しだけ冷静に次の行動を選べるようになります。
成長は一直線ではない
私はこれまで何度も、
「これで変われた」
と思ってきました。
そして、その後また悩みました。
また失敗しました。
また落ち込みました。
以前できていたことが、できなくなることすらあります。
でも今は、それも含めて成長なのかもしれないと思っています。
人は一直線には成長しない。
上がったり、下がったりする。
立ち止まることもある。
ときには後退したように感じることもある。
それでも、そのたびに自分を観察して、
今の自分には何が必要なのかを考える。
そして、また少し行動を変えてみる。
その繰り返しなのではないでしょうか。
「変わった人」ではなく「変わり続ける人」でいたい
私はまだまだ未熟です。
自分を客観視できるときもあれば、できないときもあります。
感情に飲み込まれることもあります。
人から指摘されて初めて気づくこともあります。
だから、
「私は変わった」
とは、あまり言いたくありません。
それよりも、
「必要なときに、自分を見直して変わり続けられる人でいたい」
と思っています。
一度の大きな気づきで、人生が完成するわけではない。
何度でも悩む。
何度でも迷う。
そのたびに学び直す。
そして実践する。
うまくいかなければ、また見直す。
これからも、その繰り返しなのだと思います。
だからこそ、自分を見失わないために、
自分の目だけではなく、
他人の目。
世間の目。
そして、ときにはもっと遠くから眺める「神の目」。
そんな視点を持ちながら、自分自身を観察していきたいと思っています。

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